エピジェネティクスと遺伝子の記憶

 

 

1944年オランダで発生した飢餓の中、妊娠していた母親から生まれた子供たちは、成長後、通常より高い確率で糖尿病、精神疾患などに罹患していることを示した研究があります。また、幼少期に虐待を受けた子供たちが、ストレスへの高い耐性を示す一方、脳の発達への影響や学習障害、精神の不安定さに基づく社会適応障害などの問題を抱えるケースが知られています。

 

アメリカのエモリー大学における著名な実験では、マウスに特定の香料(アセトフェノン)を嗅がせる際に電気ショックを与えた場合、そのマウスの孫の世代が同じ香料に対して、その匂いを嗅がせただけで恐怖行動を示したという結果が報告されています。

 

エピジェネティクス(Epi-genetics)とは、遺伝子配列の上に(ギリシア語で”epi”は”上に”の意味)、遺伝子配列自体を変化させることなく付け加えられる修正機構とその影響について探求する現代医学の一分野です。例えば、遺伝子配列の特定部分にメチル基が加えられた場合、その遺伝子の発現が抑制される事象が知られています。エピジェネティクス機構は、遺伝子配列へのメチル基の付加以外にも、数多くの機構が知られています。有名なものは、二重鎖DNAの3次元構造コンパクト化に関わるタンパク質、ヒストンへの化学修飾があります。DNAの3次元構造の変化は、遺伝子の発現に様々な影響を与えることが分かっています。

 

栄養状態の悪化、過度な外的ストレス(トラウマ、薬剤)、精神の不安定などにより引き起こされた考えられるエピジェネティクス機構の異常は、癌を含む多くの疾患の原因となっている可能性が指摘され、また世代を超えて受け継がれていくことも、少なくとも実験レベルでは明らかになっています。

 

スイス、チューリヒ大学での研究は、幼少期のトラウマ(母親との別離)がエピジェネティクス機構の異常の原因となり、マウスのストレス・ホルモン受容体の発現異常をもたらすことを示しました。同時に、トラウマを抱えたマウスを、ストレスの少ない、快適な環境で育てた場合、このようなストレス・ホルモン受容体の発現パターンが正常に戻ることも示されました。

 

より良い環境、食事、そして精神の健康が、自らの身体の健康だけではなく、自らの子孫の健康にまで影響を及ぼすことが、エピジェネティクス機構に関する研究から、次第に明らかになり始めています。